系譜学の効用
別のあり方がありうるということ
よく言われるように、サンタクロースが赤白なのは、コカ・コーラの宣伝の影響だった。この逸話については、コカ・コーラ社がみずからひらきなおって誇示(→リンク)することで、自社の権威づけに役立ている。しかし、ひるがえってみれば、単なる商品の広告にすぎないものが、年に一度の全国的イベントの象徴として信じられるに至ったことの恣意性——あるいは儚さ、あるいは愚かさ——を暴露しているのでもある。
ニーチェが切り開き、フーコーによって精緻化された方法論である「系譜学」とは、まずもって後者を目論みとしている。ある「規範=常識」が生じた瞬間までさかのぼり、その偶然性を暴き出すことで、権威を剥奪すること——そのことによって別のあり方がありえたことを示すこと。この方法はもはや学問を営む者にとっては、それ自体が「規範=常識的なもの」となっているけれど、それがどれほど穏当に見え、飼い慣らされたもののように呈示されたとしても、いまなお、その苛烈なまでの政治性は失われてはいない。
サンタクロースという瑣末な例だったけれど、これが国家の、法の、ある統治システムの正統性に関わるものだったなら? わたしたちには別のあり方もありえたのだということを制度のレヴェルで示せたなら? やはり系譜学は新しい学に——すなわち未来の学に属している。そんなものは学問(science)ではないという向きにはそう言わせておけばいい(学問はその意味で、十八世紀という動乱に慄いた連中が「確かなもの」を求めて作り上げた過渡の形象にすぎない)。未来の学は、まったき人間の技藝(art)であり、プラトン以来、アカデミアが目指し、成してきたものなのだから。
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冬にあったかい音楽。
