(神々の腕は、.....)
古いメモから
僕の好きな思想書のパスカルの『パンセ』とか、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』は、生前のメモの断片を、死後に友人が編纂したものだったりする。
そうしたテクストにたいして、後世にモラリストの「文学」とか「哲学」とか名前がつけられるのだけれど、僕は「思想」というのが好きだ。
「思想」という言葉がいいなと思うのは「理想」と同じく、「想」という字が入るからだ。「思」も「想」も、どちらも「思う」という意味なのだけれど、とくに「想」は心で思い浮かべるというニュアンスが強い。「思想」も「理想」も、「空想」や「幻想」ではないけれど、すこし現実離れしたニュアンスがあって、だから好きだ。僕はひとの思いの力を信じているから。
また、「思想」はフランス語では la pensée (パンセ)で、これは「考える」という意味の動詞の penser の過去分詞形がそのまま名詞になったものだ。つまり、直訳するなら「思想」のように大仰なものではなく、「思考」とか「考えたこと」とか「心に去来したもの」くらいのニュアンスだろう。「哲学」というといかめしいけれど「思想」というと、あんまし偉そうな感じがしないのもいい(とはいえ、日本ではすでにかなり偉そうな単語になってしまっているけれど……、語源とか成り立ちを見るならむしろ素朴なことばなのだよね)。
で、元の話にもどると、死後に出版されたノートの切れ端は、それこそ、そこで、ひととき、ある人間が「考えたこと」の「なま」のままのかたちに限りなくちかいものであるような気がして––––気がして、というのも、まず思考が筆跡に落ち着き、筆跡が活字に起こされ、それをさらに編纂したものなのだから、本当の「なま」とはほど遠いからなのだけれども––––、それが先日に書いた私の思想のありかたとしての「生きて考える」にちかいものであるように思えて、だからヴェイユやパスカルの「思想」が好きなのだった。
じゃあ、いまの時代に、「思想」は可能だろうか。あるいはメモの断片をまとめた本を、「思想書」として、生前に、しかも、この時代に世に問うことはできるだろうか。ほとんど不可能のようにも見える。もしも出版するとしたら、まともに受け取られないどころか、よくてただの奇をてらった文と思われるか、そもそも誰からも読まないだろう。
しかし、そういう形態(断片の思考)の本が存在してもいいはずだし、もっともっと読まれてもいいと思う。と、いうことで自分の古いメモ(8年前くらい?)のなかに、もはや他者のものとなった pensée の断片があったので、ひとつ置いておくことにする。こんな個人的な手紙の上でなら、まだ許されるでしょう(といって、誰も禁じてはいないのだけれど)
神々の腕は、彫刻されている。それは差し伸べられる、わたしに、あなたに。彼方から此方へ。しかし、彫刻は人間の、それもただ一人ではない、人間たちの力能によってなされた偉業である(だから、彫刻は指の先から彫られていて、腕の先はまだ未完成のままだ)。そのとき神々の彫刻家としての人間は歴史と等しく、祈るべき対象としてあり、同時に、まったき行為として、わたしみずからの意志によって(ただし、意志が何かに導かれるように)実存する。惹きつけられ彫るのか、彫ることで惹きつけられるのか。そのどちらでもなく、どちらでもある、としか言いようのないような中空。わたしたちがそこにいつも投げ出されていると気づくときにはあまり働いていない、力動的な創造性。それが人間という宿命的に分裂した(あるいは分割された)生物の仕事であろう。
まあ、内容としては「人間は背伸びして生きるものだよね、そんで自分では背伸びして生きていることに気づかないよねえ」くらいのことをかっこつけて言ってるだけで大したことは言ってないのだけれど、これをわざわざ「神々の腕は、彫刻されている」という比喩で語ることによって、その内容の強度が増していて、この語りのスタイルでしか語れない「何か」になっていて、そこが「思想」っぽいなと思ったのでした。こういう文体がもっと読まれるようになるといいな。
