小説の散文が強度にふれるとき......
la pratique du français
小説の散文が強度にふれるとき、それは対象と作者との——それゆえ読者との——距離がまるで消滅したかのような幻想を抱かせるまでに縮まったときである。プルーストはフローベールにそうした見事な職人芸の一例を見出している。それは蒸気船がセーヌ川の水面をきりすすみ、「打ち返された波によってうねりはじめた丸太の列に出会す」、あの瞬間である。プルーストがそこに認めるのは、この川旅のあいだ、あたかもフローベールの知性が読者と風景のあいだに介入するのをやめ、変身して物質に溶け込み、知性自体が煙や波紋となってしまったかのようにあらゆることが推移していく、その様である。プルーストは、この変身のなかに、つまり精神の活動が現実性へと転化されることのうちに、文体にむきあう作家による第一の努力を見出している。作者は見かけの上では造作もなく世界——作者と同様、われわれにとっても真に迫った世界——の背後へと消え去ることに成功している。こうした瞬間は、たとえばスタンダールにおいてはごくまれに見られるだけである。だがそれだけで、作者の存在が浸透している作品のほかの箇所までも真実らしく見せるのに十分である。ただし私は、これらを文体への努力というよりも、描写する活動の描写された対象への転化として見ている。それは、その刹那、デミウルゴス*(le démiurge)があまりに完璧にみずからの仕事を成し遂げため、その存在を疑うに十分であることを意味している。ちょうど人が神の存在を疑うかのように。
La prose romanesque touche à l’intense quand la distance entre l’objet et l’auteur — donc le lecteur — diminue au point de donner l’illusion merveilleuse de s’annuler. Proust a choisi un exemple de ce merveilleux artisanal dans Flaubert : le bateau à vapeur fend la Seine, « rencontrant des trains de bois qui se mettaient à onduler sous le remous des vagues ». Proust constate que, pendant ce voyage sur le fleuve, tout se passe comme si l’intelligence de Flaubert avait cessé de s’interposer entre le lecteur et le paysage, qu’elle se fût transformée et incorporée à la matière, devenant elle-même fumée et remous. Il voit dans cette métamorphose, dans cette transformation d’une énergie en une réalité, le premier effort de l’écrivain vers le style. Ces moments où l’auteur parvient sans effort apparent à s’effacer derrière le monde qui s’impose à nous, semble-t-il, comme à lui, peuvent être assez espacés — chez Stendhal par exemple —, mais ils suffisent à accréditer les autres corps de l’œuvre que la présence de l’auteur imprègne. Je les verrais moins comme des efforts vers le style que comme un transport de la description dans le décrit, qui signifie que, pendant un instant, le démiurge a réussi son œuvre au point que l’on est fondé à douter de son existence, comme on douterait de celle de Dieu.
(Jacques Laurent)
* デミウルゴス(le démiurge)は「造物神」とも訳される。プラトン『ティマイオス』に登場する世界の形成者・建設者としての神で、善なる存在として、混沌に形を与える。のち、グノーシス思想では物質的な被造世界を作り出した悪の元凶とされた。名前は似てるけど『ストレンジャー・シングス』に出てくるデモゴルゴン(Demogorgon)とは別物。デモゴルゴンは中世・ルネサンス期の文献に登場する「地獄の神」的な存在で、世界創造前の「隠された原初の闇」の象徴。
ジャック・ローランは戦後の作家・批評家で「ユフラン派(les Hussards)」の中心人物。「ユフラン派」はサルトルなどの実存主義・左派知識人の政治的な文芸活動の姿勢——作家には社会的責任がある——に反発して、自由な文体を重んじる主張をしていた。彼自身は右翼作家と呼ばれていることに不満を述べていたが、実際にヴィシー政権に従事していたらしい。左派に反発する右派が、「表現の自由」を謳うことにもはや違和感がなくなっているという意味では戦後の状況と現在は似ているかもしれない。ポリティカル・コレクトネスについて云々される現在、この時代における「表現の自由」についての言説の推移をみてみるのは面白いかも。
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あらためていい曲。
この方向性でアルバム出してほしい……。日本語の使い方が素晴らしい。
JPOPの歌詞には、日常のなかに神秘を見出そうとする系譜があると思っていて、完全にその系譜に入ると思う(ちなみにその系譜で一番どぎついのは、ユーミンの「雨上がりの庭で くちなしの香りの やさしさに包まれたなら きっと目にうつる全てのことはメッセージ」)。
ね Kamisama やんばい塩梅 一体何年ものの梅干しを漬けたなら健全にあなたと逢える?
cuz I wanna be your best, won’t u stop playing the fool?
ね Kamisama hunny 堪忍 一体全体どんなお出汁の御御御付けなら新鮮にあなたと逢える?
cuz you’re my mirror duh, won’t u stop acting like them, acting like wise men?
