生類の思想
藤原辰史『生類の思想——体液をめぐって』かたばみ書房、2025年。
犠牲の苦しみは、いつも一回限りで終わらない。連鎖は止められない。加害者はそこから逃げられても被害者はそこを反復しながら暮らさざるをえない。石牟礼道子は、『苦海浄土』第二部『神々の村』(二〇〇四年)で、「性」についてこんなことを語っている。
「戦場でたて続けに何百人もの兵隊を相手にせねばならぬ性とはそもそもなんだろう。そういう経験をもつ女性が、命ながらえて帰った果てに、水俣病を病んでいるのだった。
もしも、あるがままの自然というものが人類に残されるとすれば、最後の神秘として性は残すはずだった。胎児性患者を生まねばならなかった母親たちも、太初からそうであったように、魚を養う海の潮とおなじ羊水を、その胎に湧かせていたのである。女の胎と海とが、おなじ潮であることを人びとはまだ十分に思いつかない。そこに直接毒が注入されたことと「日本の性の現実」とは、たぶんふかい関わりがあるのにちがいなかった」
(……)
石牟礼道子が画期的だったのは、聖武天皇のように、生類全般を無条件に措定しなかったことである。犠牲に供されたものたちを特権的に「生類」という言葉に託したことこそ、評価されなければならない。(……)海水と羊水が有機水銀によって汚染された事実を掘り起こしながら、魚と胎児、慰安婦たちと水俣病患者たちを結びなおし、それを一元化する生類の思想を汲み出したことで、ようやく生類という言葉が生まれているからだ。その逆ではない。奇跡の惑星である地球はなんと豊かであろう、だから水俣の生類の喪失が悲しいのだ、という順番で述べているのではない。水俣湾に湧いていた生類がとことん汚されたことを認めた先に、逆説的に、ようやく「生類のみやこ」の歌をうたいだしているのである。これは、日本戦後思想の極北ともいうべきものだろう。極限まで汚染にひたった思想は、綺麗で循環するだけのエコロジー思想や環境しそうなどとはまったく相容れない暗さと深さを帯びたものである。
ただし、『苦海浄土』刊行から半世紀たったいま、石牟礼の思想をそのまま受け取るのではなく、分解し、循環させ、新しい生を与えなければならない段階に入りつつある。そろそろ日本の批判精神の担い手は、石牟礼道子に頼りすぎていたことを、公然とあるいはこっそりと彼女の思想を盗んできたことを私も含めて自覚せねばならない。「生類のみやこ」が失われた感覚さえ失われた時代に対峙する、生類の思想を探らねばならない。
(……)
では、有機水銀と放射性物質が吹き荒れるこの極端な時代に、その時代から退場させられそうになった水俣病事件や核実験の犠牲者たちの姿を原風景とするようなニヒリズムでも、たんなる近世への回帰でも、羊水や胎盤や子宮など母性に依存しすぎるのでもない「生類」の思想とは、どういうものでありうるのか。たんなる自然賛美ではない、時代に振り落とされるものたちから放たれる「生類」の思想はありえないのだろうか。つまり、脱中心化された思惟に向かえないだろうか。
体液、つまり生類から滲み出る、あるいは、それぞれの生きものを超えて満たす液汁を根拠に、ものを考えることはできないだろうか。そもそも、『苦海浄土』を、時代に捨てられてゆく人びとの体液の美学を描いた作品だとみるとどうだろうか。
チッソの嶋田賢一社長のまえで自主交渉派の川本輝夫が、「指切って痛もうじゃなかですか」とカミソリで指を切って血書を書くことを要求するあまりにも有名な場面も、中心は血液である。押し問答のすえに、水俣の男たちがつぎつぎに「ごぼうでも削ぐように」小指を切り合い、したたり落ちた血で文書を書く。嶋田は最後まで拒否し、血圧が上昇したためタンカで運ばれる。川本は情けなくなって泣きわめき、自分の父親が「精神病院の保護室でしんだぞ保護室で」「そげんした苦しみがわかるか」と嶋田に嗚咽しながら語る。ここで石牟礼は人間の仁や義の根源のようなものをとらえようとしている。だが、それだけではないだろう。生類の証である血液や涙などの体液は、いつも巨大な力によって犠牲に供された側から大量に流れる、という歴史法則といってもいい冷徹な事実ではなかっただろうか。生類全般を際限なく礼賛する思想では、この世にほとんど立ち向かえないと私が考えるのは、たとえば、以上のような修羅場ではガラクタ同然になるからである。(pp. 32-42)
藤原辰史『生類の思想——体液をめぐって』かたばみ書房、2025年。
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いろいろ言葉を差し引いて、必要な留保や譲歩を飛ばすことになるけれど、「令和人文主義」という言葉が話題になっていて、私はその傾向をよいものと捉えている(理由は良い本に出会う機会が増えるから)。
現代に「教養」とか「人文知」とか「人文主義」という言葉が内実をもつとすれば、これらの言葉が、こういう本に動機づけられて、世界に参与する意志を意味する場合だけだろう。個人の「功利=幸福」や、ビジネス的な「利益」になるだけなら、「人文学」など商品にすぎない。ただ、そうして「人文学」がこれからいっそう商品化されていく過程で、誰か一人でもこうした本に出会って、世界について想像力を働かせる機会を得られる可能性があるのであれば、これを批判するのは野暮だろう。
こんなしょうもない説教(啓蒙)めいたことをわざわざいう人もいないだろう(こうした本を真剣に読むひとは他人に「教養」を振りかざすよりも自己を省みることを優先するだろうから)が、私は世の中を変えるためなら恥知らずでいいと思っているので、わざわざ言ってみた。「令和人文主義」だとか「教養主義」の言説に参加する人は、それを批判的に捉えるにせよ、冷笑するにせよ、誰もが誰かを啓蒙しようという恥知らずな権力欲を持っているのであり、どうせ恥知らずなら、自覚的な恥知らずでありたい。
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