宇多田ヒカルの新曲で、政治的なメッセージが歌われているらしい。
どの道を選ぼうと
選ばなかった道を失う寂しさとセット
令和何年になったらこの国で
夫婦別姓OKされるんだろう
––––「Mine or Yours」
Twitterでこの歌詞だけを見て、あまりにストレートなのでギョッとした。これはさすがの宇多田ヒカルでもダサくなってしまうのでは……?
基本的に日本においてポリティカルなメッセージはダサくひびく。シュプレヒコールは当然ダサくなるとして、普通の歌やラップの中にも政治的メッセージが入るとめちゃダサくなる。抽象性が高いメッセージなら大丈夫な場合もある(「なんか生きづらいよね」みたいな)が、具体性が高くなればなるほどダサくなる(「特定秘密保護法反対」と、どう歌えばいいのか?)。
ダサくなる理由はまず、言文の不一致にあるだろう。政治的な場面での表現はカタイ漢字の熟語の羅列になる。それを日常的な歌のなかで歌われたり、叫んだりすることへの違和感がある。
でも、問題の本質はそこではなくて、戦後80年も経つのに、日本語における政治的表現がポピュラーなものへと鍛えられていないことがもっとも問題じゃないだろうか。もちろん言語それ自体の特性もあるとは思うのだけれど、それにしても美的な努力を忘れてしまっていると思う。むかし、社会運動をするときに先輩に言われた言葉を思い出す。「倫理によりかかって、ロジックを甘くしないこと」。これは美的なロジック(=デザイン)についても言えることだと思う。
と言うと、必ず、「ダサくて何が悪いんだ」とか、「ひとの政治的主張をダサいとか判断するのはよくない」とか言われる。その気持ちもわからなくはないし、「空気を読め」という同調圧力が強いこの国の中で、政治的主張をする勇気をもっている時点で、そこらの「ノンポリ」よりはるかに美しく、立派だ。しかし、やはりダサいものはダサい。ダサいのはよくない。なぜか。
それは、「美的なもの」が、私たちが社会を変革する上で用いることのできる最良の政治的手段の一つであるからだ。ひとを社会を動かすには力がいる。大雑把に分けて人を動かす力には三つの側面があるとおもう。
1 〈暴力〉:有無を言わさず相手を従わせる力:物理的暴力や金や組織の力がこれに入る
(ただし金や組織の力は、美的な部分を多く含む)
2 〈論理〉:論破する力:エヴィデンスに基づく論理的な説得がこれに入る
(ある道筋で考えるならば、誰しもが納得せざるを得ないという点で、論理はもはや「こう考えろ」という命令に近く、当たり前のことだがひとは命令されると拒否反応が出る。左派は「理性主義」という特徴をもち、「温情」や「譲歩」や「レトリック」を軽視する。それゆえに嫌われやすく、説得に失敗しやすい。〈美〉の方が暴力に近い効果を持つが〈暴力〉ともっとも距離が遠く、〈論理〉の方が暴力それ自体に至りやすい)
3 〈美〉:感性に訴える力:心を動かす説得や、芸術や、法的正統性がこれに入る
(論理的な説得に見えるものも、ほとんどは美的な説得だったりする。論理なら一度言えばわかるはずだが、人間は一度の論理的説明で自分の築き上げてきた誤った信念を変えることはできない。むしろ、何度も衝突し、あの手この手を尽くして、何度も説得することで少しずつ変わっていく。社会心理学で言われる「単純接触効果」をもちだすまでもなく、何度も(反復法)、というのは美的なもののもっともプリミティヴなかたちであり、ゆえに、もっとも力をもつ。それは誰もが知っているはずのことだろう)
「倫理によりかかって、ロジックを甘くしないこと」というのは、社会変革の際に、暴力を防ぐために必要なことなのだろうと思う。倫理に寄りかかって、〈論理〉も〈美〉も甘くしてそれでも他者に過度に期待して、変えることを欲望するなら、行き着く先は〈暴力〉か自己満足だろうと思う。本当に変えるには、他者に期待する前に(他者を説得しようとする前に)、自分の〈論理〉や〈美〉を鍛えないといけない。そこを甘くして、「ダサいことの何がわるい」と開き直るのは、どうなのだろうか。
と、言うと、やはりそれでもモヤモヤが残る人がたくさんいるだろうと思う。それってマッチョじゃない? やれる範囲での主張をしている人を黙らせることにならない? と。確かにそうだと思う。だから、本来はこうしたことは密教にしておくべきことがらなのだと思う。しかし、権力も組織も財力もある連中が、グローバルに連帯しながら、この密教であるはずの美的な力を、堂々と暴力とセットで使っているときに、左派やリベラルだけは「密教」のままにしていていいのだろうかと、どうしても思ってしまう。
むしろ、論理性や美的なものを楽しく競い合う場として政治的な場を開くことはできないのだろうか。それを学問や芸術の世界はやっている。それを政治的な場面で展開することはできないのだろうか。
(と、ここまで書いて、「ダサい」という表層への批判が表現が、なぜこれほどまでに、ひとの深い部分を傷つけうるのかについて正面から再考しなければならないと思った。「ダサい」と口にするのが問題なのか、「ダサい」を深く受け止めてしまう心性が問題なのか、もちろんどちらもそれなりに問題なのだろうけれど。私はどうしても、ダサいものにはダサいと言いたい。ダサいことそれ自体が倫理性と結びついているから。ニーチェは「ある主張の信憑性をもっとも効果的に下げたいのなら、間違った根拠でその主張を擁護すればいい」と言っていたけれど、それは美的な側面についても言えると思うから)
思ってもいなかった方向に話題がドライブしてしまったのだけれど、話を戻すと、宇多田ヒカルの曲での政治的メッセージはさすがで、全く違和感がなく聞けてしまった。そう考えるとやはり政治的メッセージそれ自体がダサいのではなく、政治的メッセージを発信する側が、倫理に寄りかかってデザイン(美的ロジック)を甘くしてきたのではないか、という疑念がより強くなってしまう。
(ただし、歌い方は自然だったけれど、宇多田ヒカルの新曲それ自体はそんなにいい曲とは思わなかった)
わりと賛否が起こる主張だと思うのだけれど、みなさんはどう思いますか。
追記:「ダサい」ということの最大の問題は、「ダサい」と言うことで他人に期待ているところですね。やはり、他人についてとやかく言う前に、黙々と自分のやるべきことをやることが大事。その上で、不特定多数に向けて、美的なものの政治的意義について強調することはやはりなお重要とは思います。