河村彩『エル・リシツキー 造形する力』
読書メモ
ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」において、ファシズムによる「政治の耽美化」を批判し、同時に、「このファシズムに対してコミュニズムは、芸術の政治化をもってこたえるのだ」と主張していることは有名だ。
日本ではたとえば、百田尚樹の『永遠のゼロ』が「政治の耽美化」のもっとも稚拙な一例だろう。どんな背景によって戦争が起きたのか、その日本の責任や加害性を一切問うことなしに、戦争で若者が死んでいくことを美化した(戦争においては、みんな傷ついたし、みんな死んだという意味で、みな被害者である。死における平等を謳いながら『永遠のゼロ』に対する批判を、「死者への冒涜だ」として倫理的に反批判することも可能にみえる。「被害者の政治」の危険はここにもある。現代の「被害者の政治」は、ベンヤミン的な意味での「政治の耽美化」と言い直すこともできるかもしれない)。
これに対して、ベンヤミンは「芸術の政治化」をもってこたえるべきだという。しかし、芸術の政治化とはどのようなことなのだろうか。もとの「政治の耽美化」の意味を考えなおすと、つまり「政治的なもの」の領域を、「美的なもの」にすることによって、本来なら倫理的、あるいは理性的な判断が必要な「政治」を、「美的なもの=感性的なもの」によって判断させることで、大衆を動員する、そのようなあり方を指しているといえるだろう。
このように考えるなら「芸術の政治化」とは、その逆、つまり「芸術」を、美的な享受の対象として閉じ込めるのではなく、それを社会的・政治的な認識と実践に結びつけることである。言い換えれば、「感じるもの」にとどまっていた芸術を、「考え、判断し、行動する契機」へと転換することといえるかもしれない。それは、芸術によって大衆を陶酔させることではなく、むしろ芸術を通じて現実の社会関係や権力構造を可視化し、批判的に把握させることである。
そうだとすれば、現実のあたりまえの見方を問い直させるような前衛芸術は、一見するとベンヤミンのいう「芸術の政治化」を体現しているようにみえる。しかし、それがただちにその理念を実現するとは限らない。
だが実際に二十世紀初頭のソヴィエト社会で生じたことは、ベンヤミンが訴えたこととは真逆のことだった。それは、「芸術の政治化」を担った構成主義が、スターリンによる政治の美学化へとのみこまれ、都市や生活のデザインがグラフィック上のスペクタクルへと縮小してゆくという事態であった。
デザインは芸術と政治および社会を媒介する。それゆえに、政治にたやすく飲み込まれ、利用されうる。われわれは、前衛芸術に「退廃芸術」の烙印を押し、バウハウスを閉校に追い込んだナチスの事例から、革新的な造形と全体主義は相対立すると思い込んでいる。だが実際は、プロパガンダとは芸術を喧伝という特定の目的に従属させるものであり、利用できるものであれば異質なものをも取り込み、芸術の形式を問うことはない。リシツキーや他の構成主義者たちの事例が現代のわれわれに示すのは、このようなプロパガンダの本質と、社会や政治と近いがゆえにどんな目的や内容にも利用されうるデザインの危うい特質であるだろう。
河村彩『エル・リシツキー 造形する力』、水声社、2026年。
ここで重要なのは、芸術の形式それ自体ではなく、それがいかなる目的に従属させられるかという点である。つまり、この本で明らかなのは「芸術=デザイン」は、それがどのようなものであれ、つねにあやうく、ひとを生かすこともあれば、殺すこともある爆薬であるということだ。その意味で芸術は確かに「善悪の彼岸」にある(ここでは詳述できないが、もっといえば、芸術は「善と悪とを共に生み出す」という意味で本質的に「善悪の彼岸」にある)。だから、芸術家にとって善悪などどうでもいいことなのだ。芸術家はただ、善悪や政治を気にせずに作ればよい。と、いうことにはならない。芸術それ自体は「善悪の彼岸」にあるからこそ、それがのちにどのように利用されるかを含めて、人間の生に貢献することが、芸術家のあるべき姿だろう。
